2023.08.15
終戦の日ですね
この時の人々の悔しさも喜びも伝わってくる気がします
わたしは周りが教えてくれなかったら
戦前戦中を生きた人の経験した時代を感じなかったと思います
その人たちの受けた教育とのギャップがありすぎなんです
いくら家族から家の前で起きた事故、隣組の作業、を聞いても、
子供に与えられてる今の自由と
昔の写真や聞く話と事実が違いすぎて、
一段と実感したのは100年前の故郷の写真集を見てでした。
特にわたしにとっては平和そのもので名だたる観光地の
ド田舎で行われている軍事訓練にはギャフンでした。
“ 隣組”ってなんですか? ~助けられたり助けたり~ - 昭和館
隣組だけではなかったです。
家庭内にも役割の違いがきっちりと分けられてた。
その戦前戦中を生きた家族には
終戦とはいえ家庭で教育されたものが残っていて、
小学校では男女平等と言われるのに
帰るとテレビ見る余裕もなく
👩🏻🦱「さっちん、ご飯作るの手伝え」
3才年上の兄がコタツでテレビ見ていても
👩🏻🦱「女の子は手伝うもんだ」
解ってましたよ。男女7才にして席を同じうせずの育ちと
男女平等、席の隣は男の子のわたしたちの育ちが違うってのはね
あ~あ、何で女の子に生まれたかなあ😵やだなあ
母👩🏻🦱は「戦前の教育でも良いものはあるから継がせないと。」
父🧑🏻は「時代は新しいんだから自由にさせえっちゃ。」
家族で迎える客が来ると
出前の御馳走や家庭の御馳走を前に、
客を接待して楽しく会話するのは父🧑🏻と父🧑🏻の自慢の跡継ぎの兄でした。
わたしと妹は陰のお手伝い。
外注の色鮮やかな料理はわたしたちの目の前を通り過ぎていく。
妹は「あんな堅苦しい所には顔出したくないから羨ましくない。」
と言ってたけど、わたしと妹の心を察してくれた父🧑🏻は
ふたり分の料理もとっておいてくれました
これがわたしの感じた戦前でした
父🧑🏻は戦時中はなんと言うか、ぐれたイタズラ者で、
村の決まりや国の決まりには従わず、すり抜けてたようです
多分自由を求めてたのかと思いますが、戦闘機には憧れてました。
でも入隊の健康検査に合格し、
これから入隊と言うところで終戦
母👩🏻🦱は従軍ナースになって戦地に行きたくて、
「師範学校に行っていいよ。」という両親の薦めを蹴って
看護学校に進みました。
看護学校を選んだんです。
先輩たちが繰り上げ卒業で次々に戦地に出ていきました。
👩🏻🦱「自分たちは次だ。」と覚悟してたらそこで終戦
それでがっくり来てしばらくは職にもつかず、
縫製を習ったようです
でも結局はナースとその上の保健師の資格を取りました。
母👩🏻🦱は紆余曲折はあっても、
やっぱり命の仕事に夢と誇りがあって実現したんですね
父🧑🏻は医療事務となりました
それでもあの頃の唯一の夢は捨てきれなかった。
軍歌をいっぱい歌いましたね
特に「加藤隼戦闘隊」好きでした。
でもわたしはこの歌を父🧑🏻のだみ声で聴くのでは
覚えられなかったです
「良かったね、父さん母さん、
あの時行ってたら今がなかったよ。
可愛い3兄弟、兄もわたしも妹もいないもんねー。」
オマケです
パブロのお父さん🧑🏻はみんなに送られて基地まで行ったけど
「お前にやる戦闘機はないから帰れ」
と言われて、
「御国のために
必ず勝ちます(`・ω・´)ゞ」
と誓って旗振って送り出された手前、
恥ずかしくて家に入れず、庭の木に隠れてたそうです
台風は0時現在で990hPa、最大瞬間風速35m/s。
鳥取県辺りは大変でしたね。
東京は最初は来るかと思ったけど、何もなかった。
風そよぐ東京でした
ニチニチ草は初めて育てた思い出がある花です
軍事化された佐渡。
ポーランドのドゥダ大統領は、UPRの兵士の記憶を称えました。
1920年、UPR軍はポーランド軍とともに赤軍と対峙しました。
歴史上、この戦いは「ヴィスワ川の奇跡」と呼ばれていました。
この戦いはポーランドの独立の維持を決定し、
ボルシェビキ(多数主義)革命の西ヨーロッパへの拡大を阻止しました。
ロシア人の帝国侵攻を再び止めています。
ウクライナ・セイチャス