2022.05.16
今日は仕事日、だけど、
今日は悲しかったことでごめんなさいm(_ _)m
実は昨日、妹👩と喧嘩に違い状態で
TELを終えてしまいました。
それで、その時に言えなかったことをまとめて言い直した形で
メールを送りました。妹👩にTEL
で
「みいは、よく
『お姉ちゃんよりは知ってると思う。』
とか言うし、わたしのことを
知ってると思っているようだけど、
わたしのことを知ってない」
と叱ったんです。
今日の夕方頃にメールを読んだ妹👩から
カッカとした電話が仕事中に届き、
👩「仕事中だろうとかまわない」などと言ったので
周りに迷惑がかかるので外に出ました。
そこで言われたのは
👩「息子たちは
『伯母さんが自分たちを愛してるのは
解ってるけど、
古傷が癒えてないので会いたくない』
と思ってるよ。
わたしもお姉ちゃんを
一生許せないでいる。」
と言うことでした
2002年に父が前立腺癌の末期と判ったとき、
👩「お兄ちゃんたちが帰国できれば任せられるけど、
一次帰国すら出来なかったなら、
わたしと横浜の妹で協力し合って看病しようね。」
と話し合っていたのに、なかなか兄が帰国できないとなると、
妹👩からの帰国要請が強くなっていき、
兄夫婦の怒りも強くなってきたので
「兄貴と喧嘩するなよ。」
と言ったんですが、
兄夫婦と相当な激しいやり取りをしたにも関わらず、
👩「えっ、お兄ちゃんを怒らせてないよ。」
と言ってわたしの助言を聞き入れませんでした。
父の最後にはわたしも手術を控えてて、
最後には母と一緒に民間救急
で父
を佐渡
に送り、
横浜から向かった妹👩とロスから帰国した兄家族に後を任せて
わたしは手術のために東京に日帰りしました。
わたしの子宮筋腫の手術の日が
父の葬儀となりました。
これでやっと兄夫婦と妹👩の間柄に一息つけるかと思ったら
母が間質性肺炎を発症。
少し悪化してた兄妹関係を引こずったまんま
親の看病の第二ラウンドとなりました。
兄夫婦と妹👩の関係がさらに悪化し、
このころに病状がかなり末期的で、
母に幸せになってもらうにはわたしたち娘の元に迎えるしかなかったのに、
兄妹関係は最悪になったんです。
わたしはひたすら母の看病だけに努力しました。
この頃になってやっと妹👩に踏ん切りがついて、
自分が母を看とるんだという気持ちを持ち、
大急ぎで病院さがしを始めました。が、
遅すぎました
もっと早くに方向転換すれば良かったのに、
兄嫁👩🦱が妹👩の圧力に耐えられなくて、
兄の家族が崩壊しそうになってました。
わたしが佐渡のナースさん
から
「お母様はもう自分で判断できなくなってるので、
お母様の気持ちによらず、ご兄妹で
看護しやすい方法を話し合ってください。」
と言われて妹👩に伝えたのに
これも妹👩は軽くとったようで、兄との話し合いがつかず、
死期が迫ってるのに喧嘩となって、
とうとう見かねた佐渡の親戚とナース
の後押しで
わたしとロスから一次帰国した兄嫁👩🦱とで
母をわたしの病院
に運ぶことになったんです。
妹👩には内緒で。
それがバレたので大騒ぎになりました。ちょうど妹👩夫婦には、
横浜の海の見える設備の良い病院が決まったところだったんで、
妹👩夫婦にはわたしが裏切ったと思われました。
それはないことは後で解ってくれたけど。
結局母はわたしの病院
で落ち着いた14日間の闘病の後、亡くなりました。
最後の日の朝、母が言ってくれた言葉、
「さっちん、ありがとう。」
あれから約20年、甥っ子たちに会えてません
甥っ子たちがわたしには会いたくないというのは
あるでしょう。
甥っ子たちは妹👩の話しか聞いてないし、
👩「政府の職員になったんでさあ、連絡先は教えられないよ。」
とは聞いてたけど、
妹👩の自分の想像で周りを切り盛りしょうとする性格を思うと
甥っ子たちとの接触を妹👩に阻まれてる感も拭えずにいました。
甥っ子の件では少なくとも妹👩が阻んでるわけでもなく、
政府職員の連絡先は秘密である事は知人の話からもはっきりできました
甥っ子のひとりが来週結婚式で、祝電を送ります。
新郎に願うことは
「お嫁さんを愛するためにはたとえ自分が濡れ衣を着せられてもいい。」
と思えるほどの無償の愛です
スェーデンとフィンランドがNATOに加盟を正式表明だそうです。
スウェーデンとフィンランド、NATO加盟申請を正式決定 - BBCニュース
これらの国々が守られるよう、
逃げる国を追いかけるプーチン政権が
神の前に悔い改めるよう祈るばかりです
ホントはもう少し凛とした赤紫です。
このご家庭はいつもパンジーが賑やかです
秋には美味しい実が沢山。
副院長ん家の美味しいヤマモモを持ち帰る勇者はわたしだけ